何もしない時間が落ち着かなかった私
私はずっと、何もしない時間が落ち着かない人でした。
体は休んでいるはずなのに、
心はどこかソワソワしていて、
「この時間、何かできるんじゃない?」と自分を急かしてしまう。
学生時代は、隙間時間に勉強することが「時間の有効活用」だと教えられ、
社会人になれば、少しでも効率よく仕事をこなし、空いた時間は別の問題解決に使う。
母親になってからは、子どもが昼寝している間に家事を終わらせ、
一人遊びをしてくれている間に次の段取りを考える。
考えてみれば、
私はずっと動いていました。
トイレに行く時ですら、
「これを終わらせてから行こう」と思っていました。
今思えば、少し笑ってしまうようなことですが、その時の私は、
いかに効率よく家事をこなすか、そればかりに意識を向けていました。
初めての子育てで、いっぱいいっぱいの毎日。
無理しているとか、疲れているとか、
そんなことを考える余裕もなく、
ただ目の前のことをちゃんとこなそうとしていました。
それはとても愛おしい時間でもあり、
同時に、私の「ちゃんとしなきゃ」が
ずっと発動し続けていた時間でもあったと思います。
ちゃんとしなければ、という思い込み
私はずっと、
「ちゃんとしなければいけない」という思い込みの中で生きていました。
効率よく。
無駄なく。
役に立つことを。
それが正しくて、
それが当たり前で、
疑うことすらありませんでした。
そのおかげで得られた評価や信用も、確かにありました。
だからこそ、
その思い込みを手放すことは、
少し怖かったのかもしれません。
ちゃんとしていない私は、
価値がないような気がして。
何もしない時間に落ち着かなかったのも、
きっとその思い込みが、
私を動かし続けていたからだと思います。
それは間違いではなかったけれど、
私を少し疲れさせる生き方でもありました。
「ボーっとしてないで」という刷り込み
子どもの頃、
「ボーっとしてないで、ちゃんと考えなさい」
誰かが言っていたその言葉。
私に直接言われたのか、
誰かに言っているのを聞いたのか、
もう覚えていません。
でもその言葉は、
確かに私の中に残っていました。
ボーっとする=よくないこと。
何もしない=無駄な時間。
そんな感覚が、いつの間にか当たり前になっていたのです。
だから私は、
何もしない時間に罪悪感を感じ、
落ち着かなくなっていたのかもしれません。
プーケットで気づいた違和感
そのままの状態で、私はプーケットに移住しました。
南国の空気は、
自然に囲まれ、時間の流れもとてもゆったりしています。
でも、家の中の私は日本のままでした。
ある日、ふと思いました。
「私は、ここに来てまで、何をそんなに急いでいるんだろう」
外はこんなにも穏やかで、
海も空も鳥の声も、すべてが優しいのに。
なのに私は、
今日の段取り、明日の予定、次にやるべきことを
ずっと頭の中で考えていました。
その時、初めて気づきました。
私は環境ではなく、
自分の内側に急ぎ続ける癖を持っていたのだと。

何もしない時間は、充電の時間
最近よく、
「ボーっとする時間は、とても大切」
「ボーっとすることの効果」
そんな言葉をよく目にします。
正直、最初はよく分かりませんでした。
でも振り返ると、
人生の大きな選択をした時、私はいつも
自分の内側と静かに対話していました。
ご飯を作りながら、
掃除をしながら、
ふと自分に問いかける。
「今、どんな気分?」
「何がしんどい?」
「何が嬉しい?」
「なんか疲れた」
「ちょっとしんどい」
「なんとなくモヤモヤする」
そんな答えが返ってきた時は、
無理に元気になろうとしなくていい。
ゆっくりお茶を飲む。
少し深呼吸する。
好きな映画を見る。
何もしないで、ただ景色を眺める。
それだけで、
心は少し満たされて、
少し安心して、
少し元気を取り戻します。
何もしない時間は、
止まっている時間ではなく、
エネルギーを充電している時間なのだと、
今は思います。

何もしない時間でも、それでいい
何もしない時間が落ち着かなかった理由は、
もう必要のない思い込みを、
ずっと握りしめたままだったからかもしれません。
ちゃんとしなきゃ。
役に立たなきゃ。
無駄にしちゃいけない。
その手を、少し緩めてみる。
すると、心も自然と緩んでいきました。
何かを考えなければならない状態から、
いったん降りてみる時間も、必要なのかもしれない。
そう思えた時、
心が少し軽くなった気がしました。
何もしない時間は、止まっている時間ではなく、
自分のために、
そっと余白をあげている時間なのかもしれません。



